長篠の戦
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長篠城
永正5年(1508年)に菅沼元成が築いた長篠城は、豊川と宇連川の合流点に位置し、北方に人工の塀と土塁を築いた堅固な城でした。戦国の世の常として、今川、武田、徳川にと帰属を変え、天正3年には21歳の奥平貞昌が城主となりました。 この城を長篠の戦いで武田信玄の子、勝頼が父の上洛の夢を果たそうと1万5000の大軍により包囲しましたが、奥平貞昌は500の兵で篭城に耐え抜きました。 名城百選にも選ばれています。
設楽原の決戦場天正3年(1575)長篠の戦いの舞台となったばしょ。武田軍と織田・徳川連合軍の総勢5万人を超える兵士たちが、当時東西の勢力の要となっていた長篠城をめぐり様々な戦術を駆使して戦いました。無敵を誇っていた武田軍の騎馬隊に対する織田・徳川連合軍は、「火縄銃」という新たな武器を「馬防柵」と「鉄砲隊」という戦術で組織的に利用し、圧倒的な強さで短期間のうちに決戦を征しました。その時の馬防柵は今も決戦場跡地に再現されています。
医王寺山長篠の戦いの武田勝頼本陣があり、山頂から長篠城跡が一望できます。麓には医王寺があり勝頼にまつわる伝説「方葉の葦」が茂る弥陀の池があります。
甘泉寺1370年臨済宗弥天永釈大和尚により開山され、和尚との関係から室町幕府足利義満から寺領の寄進をうけています。作手奥平氏との関係も深く、長篠合戦の英雄鳥居強右衛門の墓や位牌がまつられています。

新城市設楽原歴史資料館長篠の戦いの様子は決戦場を望む丘の上にある資料館で詳しく知ることができます。多数の火縄銃が展示され、鉄砲の伝来からその後の火縄銃の歴史を展示紹介しています。
鳥居強右衛門
長篠の戦いで武田の包囲網を危険を顧みず突破し、織田・徳川連合軍の援軍を岡崎の徳川家康に求める使者として奥平貞昌から命ぜられた家臣。その活躍は三河武士の模範として今でも語りつがれています。
大通寺山の盃井戸長篠城跡の北端に接した大通寺山には、盃井と呼ばれる泉があり、長篠の戦いの時、武田方の馬場信房・山県昌景・土屋昌次がこの泉を汲み、別れの水杯を交わしたと言われています。
長篠城史跡保存館長篠の戦いに関する遺品や文献などを保存し、約200点の常時展示があり、設楽原歴史資料館とともに長篠の戦いを学ぶ場となっています。
川尻城址天授年間(1375〜81)に上野(群馬県)吉井から移ってきたとされる作手奥平氏の初代貞俊が、最初に築城した城。今は城の露木門が復元され公園となっています。
新城城跡長篠の戦いの結果、織田・徳川連合軍の大勝利に帰したので、奥平貞昌は、信長と改め、家康の長女・亀姫をめとり新城城を天正4年(1576)に築城しました。
野田城址元亀4年の戦いの際、信玄が鉄砲で撃たれたという話しが伝わっています。場内にいた笛の名人、松村芳休の奏でる笛の音に、夜、信玄が聞きほれて堀端に出たところを、鉄砲の名人、鳥井半四郎に撃たれたということです。これが原因かどうかわかりませんが、信玄はこのころから病気になり、この帰路の途中、信州駒場で死んだらしいとされています。
信玄塚設楽原の激戦により村から非難していた村民たちが村帰後散乱していた名前もわからない武者のなきがらを埋葬し塚を築き弔ったところです。当時すでに信玄は没しており戦いには参加していませんでしたが、信玄の威名が武田氏の代名詞だったことがうかがわれます。
満光寺庭園「徳川家康の危機を救った鶏」で有名な曹洞宗の古刹。庭園は書院庭園と庫裡庭園の2庭から構築されています。
